バシャヌコ日記

日々の記録と思ったことなど、テレビや映画の感想多め。

キリスト教会での銃乱射事件について 

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たとえ祈っても、クリスチャン、しかも日曜日に教会で礼拝をささげているクリスチャンの命を守ることができないのであれば、神に祈ることは無駄なのか――。米テキサス州サザーランドスプリングスの教会で26人が死亡する銃乱射事件が発生した後、ソーシャルメディア上でそんな議論が起こり、著名な牧師たちも応答した。

 

上記のネット記事を読んで

キリスト教に興味がある自分としては

いろいろ思うことが出てくる。 

 

平和を祈る教会で

なぜ不幸な出来事が起きるのか。

 

日本でもそのような出来事は起きていて

キリスト教信仰がある長崎で

原爆が落とされている。

 

上記の記事の牧師や神父さんの意見は

「犠牲になった方々は神の愛によって天国に行った」

ということである。

 

しかし、現実問題として

教会に通っていたクリスチャンは犠牲になった。

 

そもそもクリスチャンは

ひどい目にあってきた歴史がある。

 

原始キリスト教の殉教の時代や

カトリックとプロテスタントの対立、

日本のキリシタン弾圧。

 

 

不幸な出来事が起きるとき

神学で言われること。

・悪魔が神に勝った

・神の計画はわからない

・祈り方が間違っている

・すべての出来事は事前に決められている

 

スピリチュアルの世界では

神聖なる二分法といって

世の中に悪があるから、光を表現できるという考えである。

 

いろいろと考えるのだが、

クリスチャンがなぜ犠牲になるのかという問いには

他の人々だったら犠牲になっても仕方がないという思考が

奥底にあるのではないかということ。 

 

祈っている自分たちは助かるはずだ。

しかし、その祈りに愛があるとは言えない。

 

天皇は四方拝というのをする。そして、

「日本や国民への災いは

 天皇のお体を通してからにしてください」

と祈るらしい。

 

これはイエス・キリストが

十字架にかかり人のために犠牲になった

という考えと似ていると思う。

 

教会で銃撃にあったクリスチャンたちも

他の人の犠牲になったのかもしれない。

 

そもそも、クリスチャンにとって

祈ることは損得勘定ではない。

 

クリスチャンにとって祈ることは

キリストのようになりたいと願うことだと言える。

なぜなら

イエス・キリストは生き方としてのお手本だからである。

 

それが自分の今の考えである。

 

 しかし、新約聖書には

「祈り求めるものは、すでに叶えられたと信じない」とある。

 

他にも聖書には

神は祈りに答えてくださると

書いてある箇所はたくさんある。