バシャヌコ日記

日々の記録と思ったことなど、テレビや映画の感想多め。

ザ・プロファイラー[終]「心やさしき巨人の苦闘~ジャイアント馬場~」 を見て

www4.nhk.or.jp

 

日本のプロレス界に黄金時代をもたらしたジャイアント馬場。家業を手伝うため、少年時代から7年間もリヤカーを引き続けた彼は、16歳で憧れの巨人軍に入団する。その彼がなぜプロレスラーとなったのか?アメリカで大成功を収め、破格の契約金が提示されていたにもかかわらず、帰国の道を選んだのはなぜか?そして、38歳で日本のプロレス界を引退する夢を描きながら、結局、生涯リングに立ち続けることになったのはなぜか?

 

ジャイアント馬場は 

1962年、

プロレスを初めて4か月で

アメリカの舞台に上がっていた。 

 

22歳のとき

力道山に弟子入りし

プロレスを始める。

 

入門から一年、

武者修行のためアメリカに行き

40歳を超えた

フレッド・ブラシーという人物が

頂点であったことに驚く。

 

プロレスの目的は

観客を熱狂させること。

 

よいパフォーマンスしたものが

勝者。

アメリカのプロレスは

そういう価値観であった。 

 

レスラーも個性を打ち出していた。

反則、覆面の謎、怪力、噛みつきなど。

 

アメリカで活躍していた

日本人レスラーのグレート東郷。

 

にこやかでヒラあまりで

卑劣な日本人をイメージさせ

観客を楽しませた。

 

その後、 馬場のマネージャーとなり

馬場に恐ろしい日本人を演じさせた。

 

ひげ、相撲のまわし、高下駄など

演出してやった。

 

ジャイアント馬場は

1938年、新潟県で生まれる。

小学5年のとき

身長が高くなっていくが

これがコンプレックスとなる。

 

家業の野菜売りで

リヤカー引きの仕事を

1日休むことなく、7年間やった。

 

小中学校で野球をやり

エースで4番。

高校ではスパイクのサイズが

なかったため美術部に入る。

 

相撲界の誘いがあったが

裸足でやれるからという理由っぽくて

嫌だったという。

 

後輩に靴屋の息子がいて

スパイクを作ってもらい

野球部に入った馬場。

 

巨人軍のスカウトがきて

16歳で巨人軍にいき

二軍の最優秀投手を獲得した。

 

しかし、

風呂場で立ちくらみで転倒してしまい

左肘のスジを切ってしまう。

 

野球の道を断たれた馬場は

巨体を生かせる道を探した。

それが、プロレスだった。

 

 アメリカで成功していたが

日本に帰国する。

 

1963年、

力道山が亡くなったためであった。

 

馬場の活躍で

プロレス人気が復活した。

 

5歳年下のアントニオ猪木と

タッグを組み

プロレスの人気はさらに高くなった。

 

日本プロレスの中継は

日本テレビが放送していた。

 

その後

テレビ朝日もプロレスの中継をするようになる。

 

看板レスラーとして

日テレはジャイアント馬場を

テレビ朝日はアントニオ猪木をメインにしていく。

 

看板対決で

馬場と猪木の対戦という案があったが

馬場は拒否する。

 

日本プロレスにとっては

負けた方の商品価値が下がるという理由からである。

 

猪木は新日本プロレスを設立。

馬場は全日本プロレスを設立。

 

仲間としてのタッグはあったが

対決はなかった。

 

曙太郎さん

「相撲界でいえば

 若貴がやっているようなものである。

  伝説で残しておけばいい」

 

猪木は喧嘩をふっかけて上がっていくタイプ。

馬場は喧嘩は付き合わないタイプ。

 

馬場は妻のために、早く引退し

円満退社してハワイに住む予定であった。

 

34歳のときに設立した

全日本プロレス。

 

実はテレビ局の問題で

仕方なく設立したものであった。

 

40歳を超えると

スピードが落ち

観客から罵声を浴びるようになる。

 

ラッシャー木村の

マイクのパフォーマンスの発言で

観客の馬場を見る目が変わっていく。

 

 

感想

38歳で引退して

ハワイで暮らすのが夢とあったが

全日本プロレスの社長となって

従業員のために

やらざるをえない状況になった。

 

結果的に

それがジャイアント馬場さんが

あそこまで評価されることになったかもしれない。

 

ジャイアント馬場さんが

アメリカで初の人気日本人スポーツ選手であったと

初めて知った。

 

 

気づいて見たら

プロファイラーが最終回であった。

 

毎回楽しみにしていた番組だったので

残念である。