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バシャヌコ日記

日々の記録と思ったことなど、テレビや映画の感想多め。

ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「“闇の中に光を求めて”~柳原白蓮~」 を見て

 

www4.nhk.or.jp

 

岡田准一の歴史エンターテインメント。今回は、美貌の歌人柳原白蓮大正天皇の従妹という立場にありながら、夫に絶縁状を突きつけ、愛に走った。2度の離婚、その度に、幽閉生活を強いられた。それでも、白蓮は“真実の愛”を求め続け、ついにそれを手に入れる。だが、その先には、戦争が待っていた。愛する長男が戦死、終戦のわずか4日前のことだった。これを機に「悲母の会」を結成、平和運動に力を注いだ。

 

1885年、東京麻布で誕生。

伯爵家の生まれで大正天皇の従妹にあたる。

 

子供のときから本が大好きであり

8歳のとき北小路家の養子となる。

それは跡取りのためだったが

そのときに自分が

父親の愛人の子であることを知った。

 

14歳で学校をやめ、結婚したがDVにあい

男の子を産んでも子育てをしてもらえなかった。

 

19歳のとき離婚が成立。

柳原家に戻るが兄の柳原義光に幽閉される。

出戻りが恥とされたからである。

 

その頃、読書に明け暮れていた。

女学校に行きたかったが

兄が次の縁談を進めようとしていた。

 

そのことが嫌で家出をし

兄はこれ以上世間体を悪くしたくないため

22歳のとき東洋英和女学校に入学させることに決めた。

 

この学校で村岡花子と出会い、

キリストの奉仕の精神を学び

炊き出しや孤児院に行ったりした。

 

卒業後、

炭鉱王の伊藤伝右衛門との縁談があった。

伝右衛門は成り上がりだったため

家の格を高めたいと思っており

大正天皇の従姉妹とされる

白蓮と結婚することにした。

 

50歳と25歳の結婚だった。

 

白蓮はこの年の差に戸惑いがあったが

伝右衛門が作った

女学校の校長になることが救いだった。

教育に理解がある人ならいいと思った。

 

しかし、村岡花子から

「心を与えないで身を与えるのは罪悪である」と

言われたという。

 

令嬢を迎えるため

伝右衛門は家を増築した。

 

その家に行ってみると 

伝右衛門の子供が暮らしていて

たくさん愛人もいた。

目標としていた女学校に携わることもできなくなった。

 

家事や育児に

生きがいに見出そうとし

子供の言葉遣いや

西洋式なしきたりを教えていたが

使用人のさきという人物の反感を買う。

 

伝右衛門もさきの味方であり

白蓮は短歌を作ることで

気を紛らしていた。

 

女は本音を歌うものではなかったが

白蓮の歌は本音を言ったものだった。

 

次第に

作った歌を投稿するようになった。

本名でバレてしまうので

白蓮と名乗るようにした。

 

歌集を出版し

キリスト教徒の踏み絵のイラストを

竹久夢二が手がけた。

 

しかし、白蓮が柳原燁子だとバレてしまう。

豪華な暮らしと

空虚な結婚生活とそのギャップが世間に

注目されてしまう。

 

そんなこともあって

白蓮は文化人と交流するようになった。

 

歌も自分の不運な境遇ではなく

恋への憧れを歌うようになる。

 

30代のときに

歌の出版の許可を得るために来ていた

東大の学生だった宮崎龍介と出会う。

 

社会活動家の龍介と

閉ざされた家庭の白蓮が

話し合うようになり、恋仲になる。

2年で700通のやりとりの記録があった。

 

そして、龍介の子供を身ごもった。

 

妻は夫がいながら

他の男性を行為があると

姦通罪という犯罪になってしまう。

 

36歳のとき、家出をして

新聞に絶縁状を掲載する。

 

個性と自由と尊貴のもと

離れるといった内容で

龍介や社会活動家と一緒に考えた内容だった。

 

世間から批判を浴びるたが

その一方、共感する声もあった。

 

平塚らいてうが登場し

女性の意識が変わり始めた時代であった。

 

伝右衛門に対して批判があったが

白蓮を訴えることはなかった。

白蓮がいなくなったことにより

伝右衛門も心安らかになったと言う。

 

ある日、 姉がきて実家に顔を出せば

龍介との結婚を認めると言われ

実家に帰ったら

兄の意向で幽閉されてしまう。

 

兄は白蓮事件のため

族議員の地位が危うくなっていた。

 

38歳のとき

白蓮は華族から除籍されたが

自由の身となった。

 

立場に弱い人に手を差し伸べる運動をしたり

文筆活動で生活を支えていた。

 

吉原から逃げだした花魁を

かくまったり

社会活動家や留学生もやってきた。

 

太平洋戦争で

息子も召集され、戦死してしまう。

 

「悲母の会」を設立し

平和の大切さを訴えた。

 

68歳のとき、福岡の地を訪れ

伝右衛門は亡くなっていた。

 

「九州にお嫁に行かなかったら

 ろくな歌も作れなかっただろう」 

 

 

感想

小さい時からずっと、家に居場所がなく

読書や歌が生きがいになっていったと思った。

 

東洋英和女学校に行って

キリストの精神を学んだり

読書をしたりしていて

いろんな世界を知っていたこと。

 

もしこういったことがなければ

夫の対応やDVなど

ただ、耐え忍んで亡くなっていたのかもしれない。 

 

自分が愛人の子であったこと

好きでない人との結婚、

そして2度の離婚、

さらに息子を亡くしたりと

ものすごくいろんな経験をしている。

 

そんな経験がなければ

歌人と呼ばれるまでいかないのかもしれない。

 

そして、それを本音で歌ったこと。

今はネット社会であり

本音を言うことは

特になにも問題なことでないが

当時としては

しかも女性が本音を言うことは難しかった。

 

しかし、本音を言ってトラブルになったり

炎上したりするのは

今も昔も変わらないということなのだろうか。